ミルの自由論とレヴィナスの神−その真理における一致−
ムスリムの「聖書」観
ミュンツァーとシュヴェンクフェルト−歴史=終末観をめぐって
沖縄における遺骨収集の展開−公文書資料から−
宗教社会倫理問題としての脳死移植
ヒンドゥー・ナショナリストの「一神教」批判-宗教・ネイション・暴力-
天文陰陽思想からみる高句麗時代の伽藍配置について
鷹木恵子著「北アフリカのイスラーム聖者信仰−チュニジア・セダダ村の歴史民族誌」
日本学より見たる降臨思想について
深密の意義について
日本における「宗教学」の特質と今後の課題
神意識の深化-生神金光大神-
神道と聖職者
ルターの社会的態度について-特に農民戦争を中心として-
東南アジアにおける仏塔の一考察-パガンの仏塔について-
墓と戒名−変わりゆく死生観− 討議記録(要約)
非キリスト教徒からみたトレルチ「キリスト教の絶対性と宗教史」
庚申塔と塚
オーロビンドーとその時点について
神経症と罪−その心理学的理解と宗教の立場
宗教的伝統への社会人類学的アプローチ
中国近代(明清時代)庶民仏教と普済菩薩
仏滅年代論再考
多神教より一神教へ
道宣の袈裟について
SASANAVAMSAのテキストについて
還元主義と宗教言語の意味の分析について
ゲーテにおける「世界霊」について
中国古代の魂招きにおける方位観の変遷
宗教経験とその特質
言語ゲームと宗教
死の問題
「稲荷信仰」の習合性
<宗教の出会い>の<神学化>−フリッツ・ブーリ教授のBUDDHA-CHRISTUS
現代解釈学におけるテキスト理解について
「草木言語」伝承考
レフ・トルストイのキリスト教理解の意味するもの
ウェスレーのキリスト論−人生と神性
神論における相対主義と絶対主義
西田哲学における意識の問題
キリスト教と禅-鈴木大拙の「無心」とエックハルトの「離脱」
スリランカ、カタラガマの祭
ウェーバーの倫理思想
神認識とエペクタシス-ニュツサのグレゴリウスの「至福について」第6講話への一試論
内村鑑三の萬朝報英文欄と長崎外人居留地の英学新聞の議論-萬朝報英文欄時代における内村鑑三のキリスト教理解の視点-
日蓮の宗教における善と悪について
宗教的ヴィジョンと聖なる空間
基の仏身・仏土論−特に阿弥陀仏の仏格の判定について−
デュルケーム学派と宗教−社会学・社会主義・宗教研究−
私と我々との始まり−H.アーレントの公共性概念の核心−
K・バルトの和解論の構造
『無量寿経』三毒五悪段について
新出富士講史料と「みろくの御世」の提唱者
金剛頂瑜伽経 1〜3,
日時勘申について
三品悔過における宗教儀礼
山本誠作・長谷正當編「現代宗教思想を学ぶ人のために」
植民地韓国における比較宗教論
自信の体制としての回教
碧巌録の書誌学的研究
婆沙論所功の諸異説について
宗教研究は社会科学たりうるか
「教行信証」における「真実」の意義
実存分析と宗教
寺院成立の一形態-鎌倉宝戒寺について-
21世紀における諸宗教の共存とアイデンティティの問題 趣旨
燈篭地蔵の調査報告
シュトラウス「ドイツ民族のためのイエス伝」における神話概念
ハリバドラの仏身論
社会変動と宗教変容−都市及び農村における一考察
東西神秘思想における否定神学の役割
芙蓉道楷の袈裟の意義について
科学と仏教の原理的合一
宗教における歴史と自然
「マイスター・エックハルトに於ける(ABGESCHIEDENHEIT)の概念について」
サーンキヤ学派における創造神の観念の変遷
トーテミズムの二形態−ラドクリフ・ブラウンとレヴィ・ストロース
近代公教育制度の確立と教導職
「教行信証」題号の意味するもの−親鸞の仏教理解の積極性
歴史悪の根源と絶対無
プロセス神学の問題点
第三イザヤにおける「沈黙」
キルケゴールにおける神の現存在
守護聖者と図像の展開
中期西田哲学における「場所」の概念
鈴木大拙の世界文化論
柱松行事についての一考察
ウェーバーの政治宗教論
幼児性・幻想・宗教−宗教心理学における関係論の位置
宗教民族学の現在
日蓮「注法華経」と「小乗小仏要文」の関連
宗教体験における聖なるものの弁証法−山崎弁栄を事例として
宗教と文化的記憶の問題−ヤン・アスマンの議論から−
M.ブーバーの「我−汝」関係に神は必要であるか
A・シュヴァイツァーとA・アイヒホルン−聖餐をめぐって
戦時下における修験道の表象
江戸時代の儀礼と政治-家光期を中心に-
龍燈伝説と聖地
杉村晴彦著「ポール・リクールの思想-意味の探索-」
ダビデの原像を求めて

成田山仏教図書館蔵書目録総合リンク集へ戻る
成田山仏教図書館トップページへ戻る