「無量寿如来会」の唯除如来所加威者について
唯信と“SOLA FIDE”について
聖書の贖罪精神とヒロイズム−新英語訳聖書の翻訳を中心として
「宗教と性」
台湾クヴァラン族の治療儀礼と祭祀集団
修養型新宗教における癒し−修養団捧誠会の場合
満之と大拙−宗教研究の一つの系譜
19世紀アメリカにおける心理的救済論(2)−民間療法家の世界観
越境する力−血の穢れと「穢れた血」
現代宗教と倫理意識の変容-宗教における心理療法的な思考・態度の拡大をめぐって-
済明天皇と道教的信仰
楽園とメシアニズム
伝教大師最澄の「円機」
宗教迫害の類型化−ユダヤ教
スリランカにおける仏教とキリスト教の歴史的対論−「パーナドゥラー論争」の意義−
沖縄の死者供養と仏教
氷上英廣とキリスト教
谷川穣著「明治前期の教育・教化・仏教」
カバラーの霊魂転生論に見られる16〜17世紀のユダヤ人の精神的状況−ツファットとアムステルダムの事例−
折口信夫の禍津日神論について
信仰と信心
茶松詩稿 3巻
複檀家成立の基盤−壇那寺と息災寺
比較カルト/セクト論−カルト人類学の視座−
一神教と多神教−Y・カウフマンのヴェルハウゼン批判について−
女性の<霊能>と仏教−真如苑の霊祖・摂受院の場合−
近代日本の雑誌メディアにおける宗教の語られ方
神葬祭地区における神仏分離の類型
朝鮮総督と宗教政策
逆説、理性、伝達可能性について
日本における超越者の観念の成立背景
「一切衆生悉有仏性」の「有」の意味−特に道元と親鸞において−
現代浄土宗人の往生浄土観
オットーの聖における言語の問題
室町時代の浄土教と蓮如
ウパニシャッドの神秘主義
エリアーデの「宇宙的宗教」について
天台智??の護国思想
カリスマ的宗教指導者の一考察
ヘーゲルの具体的普遍と西田哲学の場所
山岳寺院の開創と狩人−特に高野山金剛峰寺について
O.F.ボルノーにおける畏敬と宗教について
実存と他者−キルケゴールの実存の倫理を中心として
観心寺の沿革史
鈴木大拙の年譜における誤りと空白
ヨハネ福音書記者の叙述方法の特徴
オリゲネスにおける魔術理解をめぐって
荒野のもつ宗教的意味
承天寺広欽老和尚一代記
修養団捧誠会の倫理−個別主義の契機と自律的愛他主義の契機
現代チベットの寺院教育について
西行における花と月
祭りの共同体
現代民衆宗教の問題
平田篤胤と他界の思想
信仰共同体における宗教的権威の問題
レヴィナスにおける死の思想
キリスト教の思想的原形の考察における反セム主義の危険性
背教か改革か−イスラームにおける宗教批判のかたち−
僧伽提婆訳「阿毘曇心論」業品における三障について
浅川泰宏著「巡礼の文化人類学的研究−四国遍路の接待文化−」
スピノザの思想における共同体の論理学の基礎−ホッブズとの比較を通して−
前期ハイデガー思想における「瞬間」について
紫米のルーツについて
宗教学の論争状況−ニュー・コンパラティヴィズムをめぐって
韓国古代山岳伽藍の配置と思想
ブラジルにおける日系新宗教の展開
落葉集(1,2)
「生活の宗教」としての新宗教−霊友会系新宗教の事例−
自己理解のカテゴリーとしてのヒエロファニー
ユタについて(奄美大島調査中間報告)
キルゲールの宗教的真理について
S・キェルケゴール心理学における方法の問題
神学と心理学の一接点
「正法眼蔵山水経」の現代的意義
オイクメネ神学の問題点としてのINDIGENIZATION
宗教集団の“病気なおし”−(2)その性格について−
R.オットーと現象学的方法
北総禅の再検討
信心仏性について
理惑論のブッダ像
シェリングにおける悪について
「教行信証」「教巻」の根本問題
宗教批判と宗教
般若経における三三昧について
マスコミと宗教−伝道媒体としての放送
大乗止観法門における如来蔵の一考察
諸宗教の協力−宗教社会学的一考察
「和」の原理について
霊照女における「父と娘」
旧約聖書における創造思想 1,
SAMBANDHAの問題点
ヨハネ福音書における非概念的なものの重要性について
アレイオスとメリティオス派
「文化接触における他者の意味」
出石藩と座頭−その保護と活躍
若き日の大拙に於ける近代的自覚
円珍撰「大日経指帰」について
ジェイムズ心理学における「意志」論について
宗教解体分析としての宗教学

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