ユングにおける「移転」の問題 1,2,
幕藩体制下の宗教統制の一側面
有為相の「住」と「異」について
「瑜伽師地論」とダルマキールティにおける直接知覚
霊性−日本的知の創造性の根底にあるもの
プラトン対話篇のタイトルの意味
I.B.SINGER,FOOL'S PARADISEにみられるユダヤ教の本質
原始仏教聖典に見られる女性観−容色を中心として
中野毅・飯田剛史・山中弘編「宗教とナショナリズム」
唯識無境についての一考察
肉食は穢れか?−イケニヘ論との関連から
スカーヴァティー世自在の図像的特徴
江原武一編著「世界の公教育と宗教」
武藤慎一著「聖書解釈としての詩歌と修辞−シリア教父エフライムとギリシア教父クリュソストモス−」
現代の<宗教テロ>と<宗教の機能>
深井智朗著「超越と認識−20世紀神学史における神認識の問題−」
立正安国論と岩本実相寺
永遠に失われたものとしての死−メルロ・ポンティをてがかりとして−
識についての二つの見方
古田紹欽、倉沢行洋編「叢書 禅と日本文化 1,2 禅と芸術 1,2」
明治期来日宣教師の異端嫌疑
宗教的集合記憶のポリティクス−宗教とツーリズムの諸相−
インド・ヨーロッパ語族宗教・神話研究の現状とこれからの展望
ニーチェ「様々な意見と箴言」222節における「神像」の問題
死の対応における教導書の意味−「丁憂箚録」にみる葬送の実際−
親鸞における越後と関東−その課題性について−
教育に於ける宗教性
陰陽道の成立
現存する宮寺
ルサンチマンとリアクション
九州地方の盲僧教団について
創価学会の成立と展開
自然哲学と宗教性は両立するか−インド実在論学派を中心に−
生師と教師−エックハルト解釈の一視点
宗教集団における「ジェンダー」の再生産過程
都市における氏子集団の再編過程
宗教心理学方法論の一問題
東北における一山寺院と高野山組織との関連性
宗教の責任を考える
世俗化について
トインビーにおける世界国家と世界教会
解脱と救済の可能性
南北両アビダルマの修験道
「人天眼目抄」の宗教
戴安道の応報観
小品系般若経の経典構成概観
蘇悉地羯羅経 上中下
教相主義と文献主義
J.ウェスレーにおける権威
西田哲学におけるポイエシスの概念
藤井日達の「満州」開教をめぐる問題
瑜伽行派の物質観をめぐる問題
初期西田哲学における絶対意志の概念
プラトンの霊魂論とパルメニデスの断片について
デカルトにおける情念の定義について
ソクラテスとトランス
小毘婆沙の考察
「雑阿含経」の伝承について
デュルケムに対するロバートソン・スミスの影響
中観派におけるPRAPANCAの思想的位置
星川啓慈・山梨有希子編「グローバル時代の宗教間対話」
寺戸淳子著「ルルド傷病者巡礼の世界」
日蓮聖人遺文にみる福祉の理念
シェリング哲学における死と救いについて
「普曜経」の仏陀観
藤田定興著「近世修験道の地域的展開」
近世中期の富士信仰文献にみる庶民道徳
メソポタミアの祈祷・呪術・治療
クラフト(力)とマハト(権力)をめぐって−ニーチェ論−
敦煌遺書の出自
神智学と日本の宗教思想
歎異抄第十三条の「後世者ぶり」の問題
基督教と文化
親鸞の教化の対象
タブーの一考察
新生と理解-プルトマンとハイデガー-
神仏分離後の仏教復帰について
教行信証に於ける雑行雑修
AYARANGA-SUTTA 1とDHAMMAPADA 183
瞬間の問題について
宗教的象徴の研究−P・ティリッヒの諸説における象徴と関与について−
オシラサマと村の社会生活-岩手県下閉伊郡岩泉町大字小本字茂師における
信心と安らぎ
プラサンナパダー所引の大乗経典−特に華厳経の引用について
アイヌの宗教について
宗教の科学的研究−超心理学的研究
日本における緯書の革命説
西田哲学の行為的直観と田辺哲学
俳風柳多留と僧侶
韓国陜川地方に於ける祖先祭祀儀礼の一分析
道元禅師の発心観
ヨーガスートラ第4章第16節について
カントの悪の原理と善の原理について
般若経における般若波羅密多
空海における本覚と自心仏
ルルドの洞窟にみる祭祀空間の発生過程
温泉山(雲仙)修験と伊勢御師
日蓮における自己把握様式と時間認知の構造
新宗教の地域社会への伝播・浸透・定着過程-三重県円応教飯南教会の事例
鈴木大拙における「経験と論理」の問題

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