「瑜伽論」に見る菩薩階位と声聞階位−菩薩地住品の所説を拠り所として
道元教説における「捨」について
明恵における神と仏
法然における罪の自覚
宗教現象への接近−合理的心性と神話的心性の相克
宮沢賢治研究−「暁烏敏日記」を中心として
近代曹洞宗における仏教婦人
鎌倉五山の寺格を脈々と
善寳寺開基妙達上人の坐禅石について
トランスする身体の探求−宗教における行と身体−
ドイツ民族主義宗教運動における「解釈的同化」の問題
鈴木正三にみる念仏観について
東洋における宗教革命-その系譜と開華-
聖書における神的強制と自発的熱情のあり方
未断の聖者の邪見について−阿毘達磨論書の立場から
キリスト信仰と無
「沙石集」「雑談集」に見る仏僧と憑依
法親王考-賜姓制度より法親王制への推移-
回教的社会結合
霊雲寺慧光の円・密交際論
カーディナーに於ける宗教の問題
上代支那の人身供犠に就いて
旧約に現れるミシュパート
山形県東田川郡大和村回館における三山信仰
宗教的現実
ラインホールド・ニーブウの宗教思想
神意と数理
セイロンにおける護呪経典の性格
真宗と現代心理学に関する一考察
親鸞浄土教における過去と現在−宿縁と宿善宿業−
宗教における共通性と特殊性
転依について
「何か」という問いについて
戦国時代における寺院について−特に頭陀寺を中心として
宗教言語の分析について−フレデリック・ストレング博士諸説−
歎異抄「念仏者は無碍の一道なり」の四理由-特に第一「天神地蔵も敬伏し」につき-
ティリッヒの教会建築論について
占察善悪業報経と大乗起信論
島原修験と温泉山信仰
キルケゴールに於ける関係的自己
祝詞諸本に就て
浴仏
比較宗教学会から日本宗教学会へ
「正法眼蔵随聞記」の一考察
親鸞における行信究明の視点−行巻と信巻の関連を中心に−
仏教救世軍の構造
押し合い祭の構造と「祈り」の意味
西国巡礼行者集団の伝承をめぐって
楽(SUKHA)の二義性とニヤーヤ学派の解脱観
かくれキリシタンの一研究−とくに信仰継承をめぐって
親鸞における道徳と宗教−安城の御影の讃文について
アウグスティヌスのデモノロジー
北魏太武帝の道教観
高野山の僧が行う鎮守明神の祭祀−特にお頭の神事について
唯識無境と応離功用無顛倒智についての一考察
道元・瑩山両禅師の「同時成道」観について
近代日本の仏教と国家
ヨーガとしての現観
民衆宗教運動の再発見−賎民史研究との接続−
法然における「五番相対」と「六番相対」について
神話における「巨人」イメージの宗教現象学的解釈
羽仁もと子の信仰と女性論
清沢満之と汎神論
呪術書からみた近世日本の呪術実践
キルケゴールの<絶望>の概念
「母なる大地」を巡って−ホデノサウニ(イロクォイ)神話の宗教史学的解釈の一試み
変容するタイ上座仏教と修行−修行の身体・空間・時間−
タラル・アサドの言語ゲーム論と宗教言語ゲーム論
岡山藩庄屋文書に見る在地寺院の様相
寇謙之と儒教
C.J.ボストレームにおけるスウェーデン観念論の宗教哲学
キリスト教における「神化(テオーシス)思想」について
仏教伝道と寺檀制度について
鎌倉幕府の対僧兵政策−石清水八幡宮対興福寺の抗争を中心として−
ソコーの人、アンティゴノス
天等秘部類集
羽黒山に行われたる阿闍梨講に就いて
親鸞の宗教に於ける時間の問題
山形県最上郡舟形村の三山講
ユングのINDIVIDUATIONと禅の立場
大衆社会の宗教の心理と論理
リシュヤシュリンガ(RSYASRNGA,角仙)の説話とその変形
道綽門下の整理
親鸞における正行・雑行の分類について
宗教と道徳を距つもの−シェライエルマッハーの宗教論について
大乗仏教の教団性格
宗教的思考の論理性
フロイトの宗教論
「摂大乗論」に説かれたハラミツについて
ティリッヒの宗教社会主義−その現代的意義についての一考察−
浄土教関係敦煌写経に関する二、三の問題
修験恵印漫拏??
カントにおける崇高の感情について−「判断力批判」を中心として
ミトラス教のローマ的性格について
イズナ使いに関する一考察
神道研究と宗教学
聖徳太子の思想
江戸時代後期の仏教思想界に現われた印度哲学研究の先駆者たち
「本願寺宗政論」が現代の教団に示唆するもの
キルケゴールにおける主体性の問題

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